当山境内の墓地には、陣幕をはじめとして島居家や勝島家などの立派なお墓のほか、船形光背(ふながた・こうはい)などの形をした大きなお墓が沢山あります。
船形光背のお墓は、尾道が江戸時代初期から中期にかけて港町として栄えた時期に多く作られたと伝えられ、夫婦墓が多いようです。
また、当山本堂を延享4年(1747年)に再建した向島の天女が浜の浜旦那・土屋氏のお墓のまわりには、一族のお墓がつらなり、船形光背のものも多く見られます(土屋氏は塩田の経営を手広くしていたそうです)。
さらに、福山神辺(ふくやま・かんなべ)の漢学者・菅茶山(かんちゃざん)の弟子で、かつパトロンでもあった尾道の豪商たちのお墓が当山にあります。
菅茶山は、文化12年(1815年)10月の日記で「彦五、信義、勝島の墓を省す」と書いています。この3人は、次の通りです。