当山は、仁明天皇の承和年間(834年~847年)、慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)によって草創されたと言われています。したがって、もともと天台宗の寺でありましたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏(あしかが・たかうじ)が西下のとき、尊氏の従軍僧であった道宗雙救上人(どうそうそうきゅう・しょうにん)が今川貞世とともに人心鎮撫(じんしんちんぶ:※1)のため後詰めとして、当寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
その翌年の建武4年(1337年)には、紀州藩雑賀庄海龍寺の僧弘阿和尚によって宗祖法然上人の「御影(法然上人画像:県重要文化財)」が施入され、名実ともに浄土宗の念仏道場として栄え、多くの末寺を有しました。
室町時代には、瀬戸内海村上水軍の将、宮地一族の帰依(きえ:※2)を受け、宮地明光の次男で向島余崎城主であった島居次郎資長(しまずい・じろう・すけなが)は、彼の船中念持仏千手観音(別名:浪分観音(重要文化財))を当寺に寄進し外護(げご)につとめるなど、瀬戸内海の水軍たちの心のよりどころとして信仰を集めていました。
安土桃山時代には、中国地方の覇者毛利氏の信仰も篤く、毛利輝元は広島退城の際に当寺の一空和尚を伴って萩へ移っています。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」とともに内海水軍の将たちの中には武士を捨てて商人となり、回漕を業として問屋を営んでいました。当寺の檀家となった「唐津屋」「大紺屋」「住屋」「大栗原屋」「鰯屋」など、江戸時代の尾道における政治や経済を動かした豪商たちの外護によって今に至っています。
現在の建物は、庫裏が元禄年間(1688年~1703年)に、方丈が享保17年(1732年)、総欅造りの本堂は延享4年(1747年)の再建され、江戸時代には全ての建物が建替えられました。
慈覚大師円仁の草創以来、千百有余年—
道宗雙救上人の浄土門への改宗以来、六百有余年—
念仏道場として、今も浄土宗の法灯を守り続けています。
※1)人心鎮撫:世の中の人々の気持ちや世の乱れを鎮め、人民を安心させること ※2)帰依:仏や神を信仰し、その力に頼ること
光明寺の主な堂宇として「山門」「本堂」「客殿」「庫裏」「鐘楼堂」「宝物殿」「薬師堂」「光明寺会館」があります。中でも「薬師堂」は島根県出雲市の一畑薬師の流れを汲むもので、病気平癒・特に眼病に霊験があるとされています。当山では、毎月8日(「ようかさん」と言います)に信者さんとともに法要が営まれています。
光明寺境内は自由に拝観いただけます。宝物殿の拝観(拝観料:お一人様:400円)につきましては「事前申込み」に限り、その際はできるだけグループでの拝観をお願いしたいと思います。当山まで、お電話かお葉書 または メールにてお申込ください。(但し、法要などの都合でご希望にそえない日もありますので、予めご了承ください)
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