光明寺にまつわる人々

ご縁の深い4名の方々

当山に記念碑や作品を残されたり、作品中に登場させていただいた方々

陣幕久五郎

第十二代横綱 陣幕久五郎
(じんまく・きゅうごろう)

 島根県東出雲町に生れた陣幕は、19歳の時に尾道に来て「初汐久五郎」の弟子となり、その娘雪の婿となりました。その後、大阪や江戸へ上り、身長176センチ、体重139キロという筋肉質な体型をしていた陣幕は、1867年(慶応3年)39歳にして第12代横綱となりました。土俵生活中に一度も「待った」をしたことがなかったと言われ、その勝率は94.6%と驚異的な記録を残しています。引退後は、東京深川に横綱力士碑を建てたり、大阪相撲などの発展のために尽くしました。

 1903年(明治36年)に東京でなくなりましたが、妻とともに自慢の白ひげを当寺に葬りました。本堂前の境内の一角を占める墓前には、陣幕自作の句「受けながら 風の押す手を 柳かな」の句碑と手形の記念碑などがあります。

また、尾道には「尾道陣幕久五郎会」という組織があり、陣幕の出身地の東出雲町とは現在も相互交流を深めています。今でも会の皆様は定期的に墓参され、相撲甚句を奉納しています。2002年には、100回忌の法要を合同でつとめられ、2017年4月に創立20周年を迎えます。

池

物外和尚(もつがい・おしょう)

 物外和尚は、伊予松山の生まれです。文政13年(1830年)尾道の栗原にある済法寺の住職となりました。別名「拳骨和尚」の異名があるように、無双の怪力の持ち主で、また俳句もよくする文武両道の勤皇の志士でもありました。拳骨の跡が残る碁盤も残っているといいます。
『あれは伊予 こちらは備後 春の風』は、彼の作です。

 彼が懇意にしていた(当時の)光明寺住職を尋ねた時に池庭の亀や句碑を見て、茶室を「亀息庵」と名づけました。その揮毫の書が光明寺に残っています。ちなみに、池のそばに立つ句碑には『亀も来て 息災かたれ 庵の春』と刻まれています。春ののどかな日に、仲の良い友人同士が茶室で親しく語り合う姿が目に浮かんできます。

歩道橋

志賀直哉

 作家の志賀直哉が、一時期この尾道に住んだことがあるのは有名です。その旧居が当寺の近くにありますが、「暗夜行路」の一節にこんなことが書いてあります。

“いいかげんなところから左へ鉄道線路を越すと前に高い石段があってその上の山門に獅子吼(ししく)と勢いよく書いた大きな行燈(あんどん)が下がっていた。光明寺という寺で彼は寺内を出抜けて山へかかった…”

 残念ながら現在この行燈はなく、またこのJR山陽本線には踏み切りがなくなり、今では線路上に跨線橋(こせんきょう/写真)がかかっています。大林宣彦監督の尾道三部作の第一作目の映画「転校生」の中で、主人公が自転車をこいで駆け上がった跨線橋がそれになります。。

書院

小林和作

 尾道在住の著名な画家であった、小林和作。晩年には、書に凝って市内のいろいろな場所で書を書き残しており、大好きな「天丼」一杯をごちそうになるだけで喜んで書を書いたと言うエピソードが残っています。

 ところで、光明寺の茶室や客殿の襖には、特に彼が好きだったという唐の詩人・李白の漢詩を主に、自由奔放に書を書いています。その内容は「峨眉山月歌」「山中問答」「望盧山瀑布」などで、やはり、画家だけあって雄大な中国の景色が眼に浮かぶ詩を愛していたようです。